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頭に浮かんできた言葉に関連した本を紹介するという趣旨で記事を書いてみようと思い立ったので書いてみる。

今日思い浮かんだ言葉は「才能」

あの人はプレゼンテーションの才能がある。私にはイラストの才能がない。日常で才能という言葉はよく使われる。日常でよく使われる言葉の大半がそうであるように、才能という言葉がどういう意味を持つのか、あまりはっきりとしない。

才能には生まれつきのものと、努力によって獲得したものとに分けることがある。前者の才能を持つ人のことを天才といい、後者の才能を持つ人を秀才という。この2つの言葉を使う時、往々にして天才は秀才に優れており、先天的な才能には後天的な才能は追いつかないという文脈で語られることがある。このような才能観に真っ向から反対した本として、『非才!』がある。

Amazon.co.jp: 非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学: マシュー サイド, Matthew Syed, 山形 浩生, 守岡 桜: 本

この本は卓球の世界チャンピオンである著者が、自身の才能がどのようにしてできたのかを科学的に検証し、子どもを天才にするには親はどう育成すべきかを説いた本である。本書のもっとも核となる主張は、「先天的な才能を持つという意味での天才はいない。すべての才能は絶え間ない努力の賜物である」ということである。この主張は、ウェブ漫画などでも取り上げられている「10万時間の法則」の元ネタであるが、少々単純化して語られがちである。本書の主張では、人が卓越した才能を獲得するには (1) 明確な目的 (2) 反復可能な形式化された練習 (3) 練習を反復する膨大な時間(およそ10万時間) の3種類の条件が必要だという。1が必要なのは2や3だけでは車の運転をする人すべてがプロドライバーにはなれないことを反映している。努力しても才能を得ることができない人は、この3つのいずれかが欠けているからだという。そして、俗にいう天才たちは幼少時にこの3つの条件を満たす環境に恵まれていたからなのである。例えば、電撃のように高速で卓球の球を返す選手は、幼少時に通っていた卓球場がとても狭く、大きく身体を動かすことができなかった。その環境下で長期間に渡り卓球の練習を続けた結果として、体を動かさずに球を素早く返す能力を獲得せざる負えなくなったのだ。この選手は、最初から高速に球を返す能力を獲得しようと思って練習をしたわけではない。たまたま用意された環境の制約の中で試合に勝とうとしたことが彼を天才にしたのである。

『非才!』は凡人でも上手く努力すれば誰でも天才になれるという点では凡人に希望を与えてくれる本ではあるが、反面努力しなければ才能は身に付けることができないという点で厳しい本である。10万時間なんて社会人になってしまうととても確保できるわけはなく、天才を育てようとする親以外に本書の教訓を実現する読者はなかなかいないのではないか。そんな、手遅れな凡人の1人である私が次に面白いと思った本がこちら、『さあ、才能に目覚めよう!』である。

Amazon.co.jp: さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす: マーカス バッキンガム, ドナルド・O.  クリフトン, 田口 俊樹: 本

この本は『非才!』とは逆に、才能を先天的なものとしてみなし、誰もがそれぞれ持っている才能を伸ばそうと啓発する本である。とはいっても、ここでいう才能とは、『非才!』で取り上げていたような卓越した能力のことを意味しているわけではない。本書は才能というものを「特定の何かに執着する気質」と再定義している。そして、それこそが人を何かに特化したりスキルを身につけるための鍵なのだという。一見すると、この主張は『非才!』と矛盾するようである。しかし、よく読んでみれば実は補完する関係にあるということが分かる。そもそも、なぜ世の才能ある人は10万時間も練習に費やしたのか。それは幼少時の環境が寄与していたのかもしれないが、それだけでは成立しない。私は小学生の頃、空手・サッカー・水泳など様々なスポーツの習い事をしていたが、何一つとして上手くはならなかった。理由はいたって単純で、興味がわかなかったからである。そう、そもそも10万時間も特定の練習を反復できる執着心自体が、ひとつの才能なのではないだろうか。そしてそれは、努力で身につけるものではない。その人が生まれてから早期に身につけた性格に起因するのではなかろうか。『さあ、才能に目覚めよう!』は、人間は自我を形成する過程で何か固有のものに執着する性向という意味で「才能」を獲得しており、それを自覚して才能をポジティブに使おうとすれば人はだれしもある種の天才になれると主張した本である。

『さあ、才能に目覚めよう!』の面白いところはこの「才能」を具体的に34種類に分類し、実際に読者が持つ才能ベスト5を分析する診断テストを用意しているところである。(というよりも、そもそもこの本は才能診断テストの販促本といった位置付けなのであるが)。そして、自分が持つとされる才能をどう活かせばいいのか、周りの上司や先輩、友人はある才能を持つ人にどう接すればいいのかについてのアドバイスが書かれている。 (ちなみに私の才能ベスト5は「収集心」「内省」「学習欲」「自我」「着想」だそうで、大学の先生からは「何の意外性もない」と言われた) 自分は何に向いているのか、どうしたら活躍することができるのか悩んでいる人は、この本を読んで、診断を受けてみるといと思う。天才になれるかどうかは分からないが、自分の活かし方について示唆を与えてくれる。

以上の2冊は才能に関する本の中でも特に有名なのでここで終わるのはちょっとつまらない。そこで、別ジャンルから本を1冊取り出してみる。

才能を持ったからといって良い人生を送れるとは限らない。むしろ世の天才の中には、才能がありすぎるがために不幸な人生を送る人もいる。陳腐だが、人間に本当に必要な才能は「幸せになろうとする才能」だと私は思う。その才能を持つ人にとって、社会が豊かであろうが過酷であろうが関係ない。いつでもそういう人は自分が今生きている中で幸せを見つけようとする。

Amazon.co.jp: イワン・デニーソヴィチの一日 (新潮文庫): ソルジェニーツィン, 木村 浩: 本

『イワン・デニーソヴィチの一日』は、極限の生活の中で「幸せになろうとする才能」を持った主人公の一日を描いたロシア文学の名著である。主人公のイワンは、友人に宛てた手紙でスターリンを批判したがために収容所に送られてしまい、その間長期に渡りロシアの凍てついた収容所生活を送ることになってしまった。これはソルジェニーツィン自身の実話をもとにしており、ここで書かれている収容所生活はあまりにも凄惨である。しかしながら、この小説中でイワンは、憂鬱な感情を一切表さない。彼は昼食の時間にパンを1つ余計に食べることができたことに至福を感じ、氷点下の雪世界の中できれいにレンガを積むことに熱中する。客観的に見て誰もが不幸だと思う環境の中で、彼はささやかな幸せや喜びを全身で受け止めようとする。だからこの小説には収容所生活を描写する小説としては珍しく陰鬱な雰囲気が皆無であり、ときにはイワンがささやかな幸せに大喜びする姿に微笑んでしまうことすらある。もちろん、この小説は収容所生活が不幸ではないことを主張するために書かれた本ではない。この作品が発表された当時は、まだスターリン死後間もなくで、収容所生活について批判的に書くことができなかったという背景がある。おそらくソルジェニーツィン自身は、こうしたささやかなことを幸せに感じるイワンの姿を描くことで、逆説的に収容所生活の悲惨さを描こうとしたのだと思う。しかしながら、私はこの作品を最初に読んで感じたのは、収容所の悲惨さよりもイワンという人間の強さだった。豊かな社会の中で恵まれた人生を送っていても、必ずしも幸福にはなれない。社会が豊かであることは人の幸福追求を容易にするけれども、そもそも個々人が幸福に生きる意思を持つこともまた必要ではないか。イワンは、誇ることもなく、ただ生きる姿を見せることで私たちに幸せになる意思を持つことの重要さを教えてくれる。多分こうした強さを手に入れることはできたのは、イワンが図らずも凄惨な1日を、それこそ10万時間を越えるまで反復して生き抜いてきたからかもしれない。これからどういう考えを持って生き、いかに幸せになるかは、目の前の生活をどう受け止めるかにかかっているのだと私に教えてくれた1冊である。

わずか3冊だが思いつきのブックトークを書いてみた。単なる書評よりも、こういうブックトーク形式で書いたほうがテーマについて多角的に考えることができるので、今後気まぐれにこういう記事を書いてみるのもいいのかもしれない。

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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
kunimiya 作『気まぐれブックトーク: 「才能」についての3冊』はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスで提供されています。