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技能という概念について思うことをつらつら書いてみる。

私たちの身の周りには様々な「技能」で溢れている。語学力、継続力、 質問力、コメント力、段取り力などなど。様々な技能についての言説 をきいて、時に人は焦り、鍛錬しようとする。その鍛錬が上手くいか なくて、いかに自分が無力であるか落胆することもあるだろう。

よく考えて見ればこれらの技能のほとんどは、実体があるわけでは ない、人工的な産物である。このことは「質問力」のことを 例にとれば分かりやすい。質問力は、齋藤孝が『できる人がどこが 違うのか』で提唱した概念であり、後の『質問力』によって世に広 めた。以前からあの質問はセンスがいいとか悪いと言うことはあった だろうが、それを技能として定義したのは齋藤孝が最初であろう。 このように、技能とはある卓越したパフォーマンスの要因を分析し、 言語化したときに生まれる概念なのである。

しかし、ひとたび定義された技能は以前からあったものとして意識 されるようになり、人々はその技能を所与のものとして身につけ ようとする。技能とは、凡庸な人と優れた人との間に梯子を渡す ようなもので、人は梯子を利用することで高みを目指すことができる。 しかし梯子を登ることに熱心になりすぎると、人は目標を見失う。 本当に重要なのは、技能の習得ではなくて、学習の過程でどのような 卓越した行動をとることができるようになるか、である。

また、技能という概念は、超人や天才を解体し、全ての人間の潜在的な 可能性を均質化する。近代的な学校教育は、イギリス産業革命により すべての人間が労働者という生産要素としてみられた過程で生まれた 。教育の結果として身についた技能は、それぞれの個性を際立たせる ことではなく、むしろ抑える方向に働くのである。

卓越した人間は、人間の可能性を押し広げるような創造性を備えている。 凡庸な人々は、卓越性を技能に置き換えて自分も卓越した人間になろうとする。 しかし、技能という概念に囚われた成長は、いつまでも卓越した人間の姿に近づくだけで、 到達することはない。

すべての人々が創造性を発揮するには、技能という概念を乗り越える成長や学習のあり方を考える必要があるだろう。

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