状況に埋め込まれたブログ(カテゴリ:エッセイ)
2016-05-02T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info
kunimiya
「聴くように話す」ということ
2016-05-02T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/05/02/talking-for-listening
<p>私は会話が苦手である。
厳密に言うと、会話のなかで何かを話すのが苦手である。
話したいことがあっても、会話の流れを逸脱してはいけないし、相手に興味を持ってもらうように工夫しなければならない。
相手が話したい時と会話が途切れているときを見分けて話を挟むのもなかなか難しい。</p>
<p>だから日常のなかで、会話が得意な人の隣にいるとき、一体どうしてこの人はこんなに会話が盛り上がるような話ができるのかと聞くことが習慣になっている。最近になって分かったのは、会話が上手い人は話し方が共通している。それはみな「聴くように話している」ということである。</p>
<p>「話す」という行為は、何らかの情報を発信するか、命令することを目的とするというのが一般的な認識だろう。だから、会話のなかで何かを話そうとすると、つい人は(というか私は)自分が独自に持っている話題を発信しようと口を動かす。すると大抵は会話のなかで上滑りしてしまうのである。</p>
<p>会話の上手い人は、注意深く聴いているとまったく違う話し方をしているのが分かる。
彼らまたは彼女らは、話し始める前に出ていた話題から外れずに話す。
話している内容が話して自身の体験談であっても、それはあくまでも前の話題を「自分はこう理解している」というシグナルとして話している。つまり、会話の上手い人が話す内容は、誰かが言ったことを「話す」という行動によってちゃんと「理解している」というメッセージを発しているのである。
彼ら彼女らにとって、話す内容は二の次であり、「私はあなたの話を理解していますよ」という姿勢を示すことが重要なのだ。
このような姿勢を受けることによって、会話相手は自分と同じ感性を共有しているのだと捉えるようになり、信頼関係を構築することが出来るのである。
これが、「聴くように話す」という所作である。</p>
<p>ところで、よく、会話をするときは相手の言葉をそっくり繰り返すという「オウム返しの術」という会話術がある。あれは非常に単純でそれなりに効果が出る局面がある。しかし、実際に「オウム返しの術」を受ける側になる時があるのだが、しだいにそれが嫌になっている自分に気がついた。最初は、嫌になる自分の気持がよくわからなかった。しかし、「聴くように話す」という所作に気がついてから、その正体に気がついた。</p>
<p>オウム返しは相手の行動を模倣するということであるが、行動を模倣するということと、同じことを考えたり感じたりするということは実は異なる行為なのである。
例えばあなたが山道を散歩していたとして、あなたの友だちが行く先で休んでいるのを見つけたとする。すると、その友人は富士山が見えると言って、ある地点を指さした。当然、あなたは指差した方の富士山を探そうと当たりを見るだろう。このとき、友人とあなたは富士山という共通の事物を見ている。しかし、富士山を見るときの身体動作は異なる。立っている地点が異なるから、これは当然だろう。
会話で共通の話題をすることも、異なる地点から富士山を見ることと同じである。会話相手とは、人生の経験も背景も価値観も厳密に言えばかならずズレがある。だから、人と同じ話題を話しあおうとするときは、お互いの立ち位置の違いを考慮して、相手の言った言葉を自分の言語感覚と合うように修正していかなくてはならない。その修正結果は、おそらく会話相手の元の発言とは異なる表現になっているはずである。まったく同じ言葉になることは、ありそうにない。
オウム返しが不快になるのは、そんな奇跡的な一致が起こるはずもない他人が全く同じ言葉を返してくることによって、同じものをみていないし感じていないことを図らずも発信してしまっているからなのである。さきほどの富士山の例で言えば、見えるはずもない方角を見て「綺麗だね」と言うことに等しい。</p>
<p>会話をするということは、究極的には異なる2人の間で形にならない何かを共有することである。しかし、その何かを言葉にして伝わる過程で、意味がゆがんでしまったり、相手の言語感覚からはずれた表現になってしまったりする。伝えたい事と伝わったことのずれを修正し、2人が確かに何かを共有するためには、聴き手がどう受け取ったかを話し手にフィードバックしなければならない。会話の上手い人は、自分の話をしているようにみえて巧みに相手の話をきちんと理解するための予備動作をしているのである。</p>
<p>「聴くように話す」という所作は、価値観を共有し、分かり合うために非常に重要な技術であろうと思う。問題は、どうしたらそれを身につけることが出来るかだが、それはまたの機会に考えたい。</p>
個人主義者・梅田望夫と分人主義者・平野啓一郎
2016-04-27T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/04/27/individualism-and-dividualism
<p>最近、平野啓一郎の『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E2%80%95%E2%80%95%E3%80%8C%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E5%88%86%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B9%B3%E9%87%8E-%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062881721?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4062881721">私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)</a>』を読んで面白かったので過去に読んだことのある『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E4%BA%BA%E9%96%93%E8%AB%96%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8%EF%BC%89-%E6%A2%85%E7%94%B0-%E6%9C%9B%E5%A4%AB-ebook/dp/B0099FKR6O?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B0099FKR6O">ウェブ人間論(新潮新書)</a>』を読み返している。『ウェブ人間論』は梅田望夫と平野啓一郎の対談であり、主にブログ というメディアによって人はどう変わるかということを述べている。平野自身が『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B%E2%80%95%E2%80%95%E3%80%8C%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8C%E5%88%86%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B9%B3%E9%87%8E-%E5%95%93%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062881721?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4062881721">私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)</a>』でも述べている通り、平野は小説を書きながら分人論を少しづつ構築してきた。なので、2006年に出版された『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E4%BA%BA%E9%96%93%E8%AB%96%EF%BC%88%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8%EF%BC%89-%E6%A2%85%E7%94%B0-%E6%9C%9B%E5%A4%AB-ebook/dp/B0099FKR6O?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B0099FKR6O">ウェブ人間論(新潮新書)</a>』でも、分人論の片鱗が見て取れる。</p>
<p>『ウェブ人間論』を今回改めて読んでみて気がついたのは、梅田と平野のスタンスの違いである。当時読んでいたときは、梅田は理系出身ウェブに楽観的な人間であり、一方の平野は文系出身でウェブに悲観的な人間という対立でとらえていた。しかし、両者の違いの本質は「個人主義」対「分人主義」という捉え方でみたほうがいいのではないかと今では思う。</p>
<p>平野の提唱する分人主義は、対人関係ごとに作り出されたコミュニケーションパターン(=分人)こそ自己の本質の一部であり、対人関係を切り離しても成立する「本当の私」は存在しないとする見方である。それゆえ、平野は自己形成を語るうえでコミュニケーションを非常に重視する。『ウェブ人間論』の時点でもその姿勢は現れており、例えば平野は個人ブログについてこう語る。</p>
<blockquote>
<p>「「(……)コミュニケーション型じゃない、独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう?リアル世界では、他者の思惑に翻弄され、自分の言いたいことがうまく言えない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないと思うんです、やっぱり。ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在してないんでしょう。」</p>
<cite>『ウェブ人間論』p.164</cite>
</blockquote>
<p>独り語り型のブログの典型である本ブログの筆者からするとグサリとくる表現だが、それはともかくとして平野はこの時点で分人主義的思想を持っており、コミュニケーションが無いブログについて否定的な反応を示している。これに対して梅田はあまり明確な答えは出しておらず、特筆するところはないのでここでは省略する。</p>
<p>一方の梅田は、特にコミュニケーションを否定しているわけではないので平野と対立しているようには見えない。しかし、梅田の著作をみると、彼の考え方が個人主義にもとづいていることがわかる。彼は著作のなかで頻繁に「サバイブ」という表現を使う。競争相手の多いシリコンヴァレーで暮らしてきた経験に基づくのでそうおかしなことではないのだが、一方で「協力」とか「信頼」といったワードはほとんど使わない。『ウェブ進化論』を読むと、彼はウェブの創造性を語るうえで「個」と「全体」という関係性で説明しており、常に単位は「個」である。梅田にとってウェブでの理想的な形は「個」同士は対話せず、各々が独自に知的生産し、それをグーグルという「全体」がまとめ上げる。これは結局、人々をシステムの構成要素としてみる社会システム論の言い直しである。だからこそ、梅田は楽観的に「あちら側」を信頼しているのである。なぜなら、社会システム論的な観点では、システムの幸福と個々人の幸福は一致するからである。平野はこうしたシステム論について言及はしないが、梅田の思考からふるい落としている人間関係が生み出すものの重要性を『ウェブ人間論』で一貫して突き続けている。</p>
<p>梅田望夫は、本書の後に<a href="http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html">「日本のウェブは残念」という発言をして物議をかもした</a>。彼の期待と現実に大きなギャップが生じたのは、もしかしたら平野がさり気なく指摘していた「個」を基調として人間関係を捨象するウェブ社会の見方だったのかもしれない。</p>
ウェブという比喩について・ふたたび
2016-04-20T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/04/20/memo-about-human-web
<div class="amazon_tag" itemscope="" itemid="urn:isbn:4903063720" itemtype="http://schema.org/Book"><a class="image_block" target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E2%94%80%E2%94%80-%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%A8%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BBH-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4903063720?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4903063720"><img src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51RmjGAuQ7L._SL160_.jpg" /></a><div class="item_detail"><p class="title" itemprop="name"><a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E2%94%80%E2%94%80-%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%A8%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BBH-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4903063720?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4903063720">世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史</a></p><ul><li>著者: <span itemprop="author">ウィリアム・H. マクニール, ジョン・R. マクニール</span></li><li>出版日: <span itemprop="datePublished">2015-10-02</span></li><li>出版社/メーカー: <span itemprop="publisher">楽工社</span></li><li>カテゴリ: <span itemprop="">Book</span></li><li>ISBN: <span itemprop="isbn">4903063720</span></li></ul></div></div>
<p>以前、「<a href="/blog/2013/02/14/web-as-metapho/">ウェブという比喩の普遍性</a>」という記事を書いた。ハンナ・アーレント、イヴァン・イリイチ、星新一などがインターネット発明以前に提唱した様々な「ウェブ」概念をつらつらと紹介した記事である。その当時は、単にたまたま同じ表現を使っていたということを面白がって書いていたが、今になって考えるともっと深く追求できるトピックなのかもしれない。</p>
<p>というのも、『世界史』で有名な歴史家マクニールが”The Human Web”という著書を2005年に出版していたことを知ったからである。<a href="https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2-%E2%94%80%E2%94%80-%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%81%AE%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%A8%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BBH-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4903063720?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4903063720">去年の11月に訳書が出版されて</a>知ったのだが、この本では世界の歴史をマクニールが提唱する”The Human Web”の発展過程として描いているそうだ。未読なので彼がどうしてウェブという概念を導入することを試みたのかは分からないが、もしこの方向性で歴史を捉えることに何らかの意味があるのであれば、インターネット以前に「ウェブ」という表現を使用した人々の思想も秩序立てて整理することができるのではないか。</p>
<p>発展途上国の研究では社会ネットワーク分析の研究が注目されているという。社会ネットワーク分析は、まさしく社会を人々のウェブとし てみる研究のアプローチである。古今東西のウェブ思想をこうした現実的な社会問題に取り組む研究へのフィードバックもありうるのではないだろうか。</p>
映画にしかできないこと
2016-04-17T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/04/17/why-we-are-going-to-cinema
<p>映画が映画である最低限の条件とはなんだろうか。まず動画であることが条件の1つであることはたしかだ。しかし、単なる動画であるならば、街の監視カメラ画像との区別がつかないであろう。次に考えられるのは、何らかのストーリーが付随することである。映画は複数のシーンで構成されているが、フィクションにしろドキュメンタリーにしろ、それらのシーンには一貫した話の筋がある。映像と物語が映画の本質的な構成要素である。</p>
<p>それでは、映画のなかで映像と物語はどのような関係性を持っているのだろうか。視覚的要素と物語とは、他の芸術でも関係性を作ることができる。漫画などはそうだし、小説でも風景描写は重要である。映画と小説・漫画における風景の位置付けの違いはなんだろうか。</p>
<p>小説における風景は、物語に従属する。それに対して映画とは、物語が風景に従属する芸術である<sup id="fnref:1"><a href="#fn:1" class="footnote">1</a></sup>。ある風景に潜む意味を観客に提示することは、映画にしかできない。映画としての独自性は、スクリーンに広がる風景が物語によってどれだけ異化され、観客にとって特別なものになるかということにある。</p>
<div class="amazon_tag" itemscope="" itemid="urn:isbn:" itemtype="http://schema.org/Book"><a class="image_block" target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%AF%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E3%81%AB%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%A6-DVD-%E3%83%AF%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89/dp/B00JS9UH9I?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B00JS9UH9I"><img src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51hr3Gw0JAL._SL160_.jpg" /></a><div class="item_detail"><p class="title" itemprop="name"><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%AF%E8%87%AA%E8%BB%A2%E8%BB%8A%E3%81%AB%E3%81%AE%E3%81%A3%E3%81%A6-DVD-%E3%83%AF%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89/dp/B00JS9UH9I?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=B00JS9UH9I">少女は自転車にのって [DVD]</a></p><ul><li>著者: <span itemprop="author"></span></li><li>出版社/メーカー: <span itemprop="publisher">アルバトロス</span></li><li>カテゴリ: <span itemprop="">DVD</span></li></ul></div></div>
<p>以前、『少女は自転車に乗って』という映画を観た。女性が自転車に乗ることが宗教上の理由により禁止されているサウジアラビアで、ある女の子・ワジダが自転車に乗ろうと様々な挑戦をしていくというお話の映画である。作中、ワジダがついに自転車に乗って走るシーンがある。観客の誰もが、このシーンを観て感動するのではないだろうか。少なくとも私はした。その光景が実現する前のワジダの苦労を知っているからだ。しかし、もし観客が、このシーンだけを観たとしたらどうだろう。おそらく少女が単に自転車に乗っている他愛もない風景としてしか観なかったに違いない。観客が感動できるのは、そのシーンに込められた意味が、物語という補助線によって提示されるからだ。</p>
<p>目の前に広がる風景に意味を見出すこと。それは生きるうえで無くてはならない行為だ。しかし人は日常生活で見慣れた風景に囲まれ、なかなか意味を見出す力を伸ばすことができない。映画は、そんな平凡な日常を生きる人が、風景から生きる活力を見つける方法を教えてくれる芸術なのかもしれない。</p>
<div class="footnotes">
<ol>
<li id="fn:1">
<p>余談だが、演劇は風景から独立した物語である。演劇が演劇として成り立つのに、セットは必ずしも必要ではない。『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A9%BA%E9%96%93-%E6%99%B6%E6%96%87%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4794921675?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4794921675">何も無い空間</a>』を参照 <a href="#fnref:1" class="reversefootnote">↩</a></p>
</li>
</ol>
</div>
生涯学習支援からみる『脱学校の社会』
2016-04-13T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/04/13/deschooling-society-as-life-long-learning
<p>先に紹介したイヴァン・イリイチ『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4488006884?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4488006884">脱学校の社会</a>』(<a href="/blog/2016/04/10/article-book-review-deschooling-society/">書評</a>)で述べられている教育論は、現代に照らして考えれば生涯学習論と親和性が高い。例えば、イヴァン・イリイチは優れた教育制度が持つべき目的として次の3つを挙げている。</p>
<blockquote>
「第一は、誰でも学習をしようと思えば、それが若いときであろうと年老いたときであろうと、人生のいついかなる時においてもそのために必要な手段や機材を利用できるようにしてやること、第二は、自分の知っていることを他の人と分かちあいたいと思うどんな人に対しても、その知識を彼から学びたいと思う他の人々を見つけ出せるようにしてやること、第三は公衆に問題提起しようと思うすべての人々に対して、そのための機会を与えてやることである。」
<cite>(『脱学校の社会』p.140-141)</cite>
</blockquote>
<p>以上の3つの教育目的のうち、第1の目的についてはそのまま生涯学習支援の目的につながっている。第3の目的については、言論の自由を保障するものであり、社会教育とのつながりを見いだせる。</p>
<p>イリイチの教育制度論の独自な点は教える側の支援を教育目的に挙げている点である。通常、教育制度は学ぶ側の便益を考えるものであり、教育者とはそのための人的資源である。しかし、イリイチの視点では教育の便益を受けるのは学習者だけでなく教育者も対象に入るのである。つまり、イリイチにとって教育の実践は両者が共に便益を享受する状態なのである。</p>
<p>こうした考え方から、イリイチは教育に必要なのは学習資源と学習者、教育者と学習者の関係構築を支援する環境であると説き、良好な関係を構築するためのマッチングシステムを新たな学習支援の形として提案するのである。</p>
<p>イリイチの脱学校論は、かつては学校制度批判の理論基盤として持ち上げられていた。しかし今考えるとするならば、ソーシャル・ネットワークを活用した生涯学習支援制度などのようなアイデアの検討に援用することができるのではないだろうか。</p>
<div class="amazon_tag" itemscope="" itemid="urn:isbn:4488006884" itemtype="http://schema.org/Book"><a class="image_block" target="_blank" href="https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4488006884?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4488006884"><img src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41Cig-Zc25L._SL160_.jpg" /></a><div class="item_detail"><p class="title" itemprop="name"><a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81/dp/4488006884?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4488006884">脱学校の社会 (現代社会科学叢書)</a></p><ul><li>著者: <span itemprop="author">イヴァン・イリッチ</span></li><li>出版日: <span itemprop="datePublished">1977-10-20</span></li><li>出版社/メーカー: <span itemprop="publisher">東京創元社</span></li><li>カテゴリ: <span itemprop="">Book</span></li><li>ISBN: <span itemprop="isbn">4488006884</span></li></ul></div></div>
「自分探しの旅」が本当に意味するもの
2016-04-09T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/04/09/mean-of-discovering-oneself
<p>「自分探し」の旅は、しばしば馬鹿にされがちだ。自分は常にそこにあるはずなのに、なぜ旅に出なければならないのか。人はそれを滑稽だと言って笑う。しかし私は、別にそれが変なことだとは思わない。むしろ、正常な行動なのではないかとさえ思う。以下、そう思う理由を、自分なりに説明してみようと思う。</p>
<p>人が「わたし」を初めて認識するのは、鏡の前に座った時である。そのとき人は自己に肉体という境界があることに気づき、世界から切り離されて「わたし」になる。鏡という存在があってこそ、自我の形成が可能になる。</p>
<p>わたしを形成するための鏡は、物理的に光を反射するものに限らない。人と出会い、話をするとき、人は話し相手の反応を見ることで自己がどう見られているのかを知る。すなわち、他者もまた鏡の一種なのである。人は人生の中で絶えず鏡を見ていて、そこに映る自分の姿を見て自己イメージを修正していく。</p>
<p>ただし、1人の他者が映すのはあくまでも自分の一側面に過ぎないということである。ある人は職業、出身地、趣味、国籍、宗教、性など様々なアイデンティティの組み合わせで自己イメージを作り出している。しかし他者はその中の幾つかにしか着目しない。ある人は「趣味が同じ人」として話し、ある人は「職業が同じ人」として話す。または異性として話すこともある。その他のアイデンティティについては、関心がないので反応しないか認識しない。そこで、人は平生1人の他者に頼るのではなく、多様な人と出会うことによって複雑な自己イメージを偏りなく修正しようとする。</p>
<p>ここで、多様な人々と出会えないとどうなるのだろうか。例えば同一の職業でつながるコミュニティに依存した生活を送っているとき、そこにいる他者は職業という側面でのみその人を見るので、職業人としての「わたし」は確認できる。しかし、それ以外の側面の「わたし」を確認することはできない。これは首から上しか見せないでその他の身体は全く写さない鏡を見るようなものである。首以外の身体の状況を確認できないので、人は「もしかしたら身体の一部が欠損しているのではないか?」と不安に襲われる。このように多様な他者と出会えないことは、アイデンティティの崩壊をもたらす原因となる。</p>
<p>改めて「自分探しの旅」とは何かを考えてみよう。人は自我を1人だけで認識することはできない。そして、多様な他者と出会えない社会では、自己の多様性を写すことのできないので、人はアイデンティティ崩壊の不安を抱くようになる。この不安を解消するためには、まだ出会ったことのない人に出会いに行くしかない。そして全体としての「わたし」を取り戻さなくてはならない。自分探しとは、自己イメージを健全に形成できる環境を物理的な移動によって再構築すること。これが自分探しの旅の本当の意味である。</p>
<p>それでは、不安に駆られた人が自分探しをしないとどうなるか。そういう人は首から上の自己像をみて、自分は首だけしかない存在だと思い込むことと同じだ。すなわち、自己イメージの矮小化がはじまる。自己イメージの矮小化は、当人にとって有害なだけではなく、社会にとって極めて危険だ。なぜならばその時、人はたった1つのアイデンティティしか持たないことになる。それが損なわれれば死んだも同然である。結果として、矮小化された人は扇動者の口上に乗って狂信的行動に駆られる。虐殺やテロへと動員されやすいのである。</p>
<p>自分探しの旅が表しているのは、旅をする人の愚かさではない。その人が暮らす環境の硬直性である。自分探しの旅に出る人をみて起こすべき反応は、嘲笑うことよりも、自分たちの暮らす社会がいつの間にか人間を拒否する社会になっていないか反省することであるだろう。</p>
技能という概念について
2016-03-20T00:00:00+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2016/03/20/about-the-concept-of-skill
<p>技能という概念について思うことをつらつら書いてみる。</p>
<p>私たちの身の周りには様々な「技能」で溢れている。語学力、継続力、
質問力、コメント力、段取り力などなど。様々な技能についての言説
をきいて、時に人は焦り、鍛錬しようとする。その鍛錬が上手くいか
なくて、いかに自分が無力であるか落胆することもあるだろう。</p>
<p>よく考えて見ればこれらの技能のほとんどは、実体があるわけでは
ない、人工的な産物である。このことは「質問力」のことを
例にとれば分かりやすい。質問力は、齋藤孝が『できる人がどこが
違うのか』で提唱した概念であり、後の『質問力』によって世に広
めた。以前からあの質問はセンスがいいとか悪いと言うことはあった
だろうが、それを技能として定義したのは齋藤孝が最初であろう。
このように、技能とはある卓越したパフォーマンスの要因を分析し、
言語化したときに生まれる概念なのである。</p>
<p>しかし、ひとたび定義された技能は以前からあったものとして意識
されるようになり、人々はその技能を所与のものとして身につけ
ようとする。技能とは、凡庸な人と優れた人との間に梯子を渡す
ようなもので、人は梯子を利用することで高みを目指すことができる。
しかし梯子を登ることに熱心になりすぎると、人は目標を見失う。
本当に重要なのは、技能の習得ではなくて、学習の過程でどのような
卓越した行動をとることができるようになるか、である。</p>
<p>また、技能という概念は、超人や天才を解体し、全ての人間の潜在的な
可能性を均質化する。近代的な学校教育は、イギリス産業革命により
すべての人間が労働者という生産要素としてみられた過程で生まれた
。教育の結果として身についた技能は、それぞれの個性を際立たせる
ことではなく、むしろ抑える方向に働くのである。</p>
<p>卓越した人間は、人間の可能性を押し広げるような創造性を備えている。
凡庸な人々は、卓越性を技能に置き換えて自分も卓越した人間になろうとする。
しかし、技能という概念に囚われた成長は、いつまでも卓越した人間の姿に近づくだけで、
到達することはない。</p>
<p>すべての人々が創造性を発揮するには、技能という概念を乗り越える成長や学習のあり方を考える必要があるだろう。</p>
マンデート・ルール : ビブリオバトル追加ルールの提案
2014-09-09T17:13:28+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2014/09/09/mandate-rule-as-additional-bibliobattle-rules
<p>ビブリオバトルでチャンプ本を選ぶことが批判されることがしばしば起こる。このような批判に対して私は、ビブリオバトルの勝敗が本の優劣を決めるものではないこと、チャンプ本を選ぶことで参加者の関心を表出できるというメリットがあると答えて、ビブリオバトルの弁護を試みることが多い。しかし、私はこのような弁護が批判に対応できているのか常々疑問に思っていた。そして、どうしてこのような批判が起こるのか、どうすれば適切に対処できるのか悩んできた。</p>
<p>悩んだ末に私は次のような考えに至った。ビブリオバトルに勝敗の要素があることに批判が集まる原因は、チャンプ本を選ぶ目的が多くのビブリオバトルイベントで不明確だからなのではないか。『[<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4166609017?tag=dhatenanejpkuni-22">ビブリオバトル 本を知り人を知る書評ゲーム</a>』によれば、ビブリオバトルは、本来は輪読会で読む本を決めるために生み出されたゲームであるという。そこでは、ビブリオバトルで選出されたチャンプ本は、その後の輪読会の運営に影響を与えるものとして明確な意義があった。しかしながら、現在のビブリオバトルではチャンプ本が次回のビブリオバトルに影響することはあまりみられない。選挙にしても、以後の政権を握る人物を決めるためという目的が果たされなければ、それは単なる人気投票に過ぎなくなる。そうなれば投票をすることに対して懐疑的になるのは当然だと思う。投票という制度が意味を持つためには、投票目的が何らかの形で実現されなければならないのだ。</p>
<p>もし上のような考察が正しいと仮定して、どのような方法で問題を解決することができるだろうか。個々のビブリオバトルの運営者が何らかのフォローをするということは考えられるが、結局それはビブリオバトル全体の状況の解決には繋がらない。ビブリオバトルのチャンプ本に意義を持たせるには、それに対応するルールを制定する必要があるのではなかろうか。そこで、私は僭越ながら以下のようなビブリオバトルの追加ルールを提案したい。</p>
<ol>
<li>発表者は、前回のビブリオバトルで決定したテーマに関連した本を選ばなければならない(初回開催時は運営者がテーマを決定するものとする)</li>
<li>発表者は、本のプレゼンテーションの中で、紹介する本のキャッチフレーズを必ず述べる</li>
<li>運営者は、チャンプ本と発表者が付与したキャッチフレーズを次回ビブリオバトルのテーマとして採用しなければならない</li>
</ol>
<p>上述のルールを、私は「<strong>マンデート・ルール</strong>」と名づけておく。つまり、このルールを追加したビブリオバトルでは、投票行為は次回ビブリオバトルのテーマを決定する権限を投票対象に委任する行為であるとみなすのである。政治が選挙で選出された政治家に左右されるように、ビブリオバトルの運営はチャンプ本に左右されるのである。このようにビブリオバトルの運営に影響をあたえるようにチャンプ本を位置づけることによって、投票行為の意義を明確化するのがマンデート・ルールの目的である。</p>
<p>ちなみに、ビブリオバトルのテーマがチャンプ本だけでなく発表者のキャッチフレーズも含んでいるのは、その本が紹介された文脈を伝えるためである。本には様々な要素が詰まっているので、本だけをテーマにすれば前回のビブリオバトルとまったく関連性を持たないような本にこじつける危険性が考えられるために、キャッチフレーズという形で文脈情報を付与することにした。</p>
<p>マンデート・ルールは、ビブリオバトルのコミュニティ形成の要素を強化することにも役立つのではないかと考えている。チャンプ本が次回ビブリオバトルのテーマとすることによって、ビブリオバトルの運営に聴衆も参加できるようになり、ビブリオバトルを取り巻くコミュニティについて意識するようになる。たとえビブリオバトルの参加者が毎回変動したとしても、前回のチャンプ本を参照することによって、自分がどのような文脈のもとでビブリオバトルに参加しているのかを意識するようになるだろう。また、マンデート・ルールはどのような規模のビブリオバトルでも継続性のあるものであれば採用が可能であるので、運用の負荷もあまりかからない。</p>
<p>マンデート・ルールはまだ実際に運用したことがないので、このルールが有用であるかどうかはまだ分からない。実際に検証するにしても、長期間の観察が必要であろう。そのため、まずはこのようにブログ記事として公開することで、ビブリオバトルの参加者や運営者に問うことにした。</p>
<p>皆様はどうお考えだろうか。問題の仮説に対する反論や改善策も含めてぜひ意見を頂きたい。</p>
図書館についての原体験
2014-08-10T09:14:39+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2014/08/10/my-formative-experience-in-a-library
<p>私が図書館に関心を持ち、図書館について学ぼうと考えるようになったきっかけは、初めて自分ひとりだけで図書館に行ったときの感動だった。</p>
<p>それは小学校低学年の頃だったかと思う。私が小さな市立図書館の扉を開いて、自由に本棚を歩いているときに抱いたイメージは今でも覚えている。それは無数の窓であった。 それも窓と窓が重なりあい隣り合い、ひとつの結晶構造を形作っているような、そのようなイメージだった。窓の向こうには私が行ったことのない国があり、会ったことのない人がいて、今まで聞いたことのない話をしてくれようと私に手を伸ばしている。窓から窓に様々な糸が張り巡らされていて、窓を開いて話を聞いているとき(つまり本棚から本を取り出して読んでいるとき)、ときおりその糸が揺れうごき、窓と窓の関係を私に教えてくれた。</p>
<p>本棚を前にしてこのようなイメージを抱いた時、私は自分が無数の人びとと共に生きていているということを実感した。それは地球儀に触れるよりも旅行するよりもはるかにリアリティのある体験だった。 ( ついでにいえばそのイメージを強く喚起した本棚は図書館の蔵書の大半を占めていた9類(文学)の棚ではなく、 9類におされて小さくまとまっていたその他のノンフィクションの棚であった。 )</p>
<p>この図書館に対するイメージは、何を意味するのだろうか。それは私の幼いころからの課題であり、未だに結論が見えない。ただそれは私がひとりの人間として公的な領域と関わることと重要なつながりをもっているのではないかとぼんやりと考えている。</p>
<p>それまでの私の読書体験は自分の家庭環境と不可分なものだった。幼いころは親からの読み聞かせで本に触れ、物心がついた頃には家にある本を読むようになり、その後書店で本を買うようになってもその代金は結局親からもらうものであった。それに対して図書館で本を借りるという行為は、そうした自分のプライベートな都合から離れて、ひとりの人間として本を読むという行為を実現してくれる。つまり図書館における読書は子どもが対等な人間として公的な領域に触れる数少ない体験となりうるのである。</p>
<p>ハンナ・アレントは『<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081569/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/">人間の条件</a>』のなかで、公的という言葉についてこう語っている。</p>
<blockquote>
<p>「<ruby>公的<rt>パブリック</rt></ruby>」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。しかし、ここでいう世界とは地球とか自然のことではない。地球とか自然は、人びとがその中を動き、有機的生命の一般的条件となっている限定的な空間にすぎない。むしろ、ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらに、この人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人びとの<ruby>真中<rt>ビトウィーン</rt></ruby>に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの<ruby>真中<rt>ビトウィーン</rt></ruby>にあるということを意味する。つまり、世界は、すべての<ruby>介在者<rt>イン・ビトウィーン</rt></ruby>と同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。</p>
<p><cite>『人間の条件』ハンナ・アレント/著 志水速雄/訳, 筑摩書房, p.78-79</cite></p>
</blockquote>
<p>ハンナ・アレントの言葉を踏まえれば、私は図書館という人間の製作物によって世界に触れ、遠く離れた人びとと結びついたのである。 それは同時に、身の回りの人びとから分離され、ただひとり考え感じることを経験したのである。 図書館は私に、ハンナ・アレントいうところの<ruby>独居<rt>ソリチュード</rt></ruby>を体験させたのだろう。</p>
<p>他人がこのような体験をしたことがあるかどうかは分からないが、その体験は私の人格や行動に変更不能な影響を与えたのである。 そして、私の図書館に対するイメージを決定づけ、 私が図書館について学び研究するときに、人との関わりを作り出すことに注目しがちな性向を創りだしていったのである。</p>
<p>つい最近、博士論文という形で自分の考えを世に発表したが、博士号をいただくことになってもなお自分の図書館についての考えが完成したとは思えないでいる。</p>
<p>図書館にはじめて入ったときの衝撃的なイメージから長い時間を経て、今私は図書館員として勤務するようになった。 仕事の上で図書館について考えるとき、上に書いたような個人的な体験に基づく独自の考えはできるだけ省き、現実的な視点で考えるように心がけている。 ただ、これまでと同じように、これからも私は図書館と、図書館を通じた人との関わりについて考え続けていくことになるのだろう。</p>
<p>その成果として、ただ独居的に図書館についてのイメージを抱くだけでなく、現実に人びとと図書館の中で特別な体験を共に得たいとも思っている。</p>
タイムラインに縛られたウェブ
2014-08-09T16:50:32+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2014/08/09/%e3%82%bf%e3%82%a4%e3%83%a0%e3%83%a9%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%81%ab%e7%b8%9b%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%9f%e3%82%a6%e3%82%a7%e3%83%96
<p>ブログ然り、Twitter然り、時間に基いて配列してコンテンツを配列する、いわゆる「タイムライン形式」のコンテンツ発信手法が主流だ。 この手法は一見、理にかなっているようにみえる。 時間は人間が生きる上で絶対に存在するもので、時系列は逆行も重複もしないコンテンツの分類方法だから、 コンテンツ制作者は情報のアーキテクチャについて考える必要はなくコンテンツを配信することに専念できる。</p>
<p>しかし、タイムライン形式のコンテンツ発信手法にはある問題を抱えている。 それはコンテンツの誤りを訂正したり、内容を改善しようとするのが難しい点である。 ブログやTwitterといったタイムライン機能を持つウェブサービスでは基本的に内容の変更を前提としていない。 特にTwitterはツイートの変更という機能そのものがなく、削除しかできない。 ユーザはしゃべるようにコンテンツを発信し、内容を変更しようとすればそれを新たなコンテンツとして発信する。 これは一見問題がないように思えるが、口頭による情報伝達とは異なり、一度発信したコンテンツを削除することはなかなか容易ではなく、 訂正や内容の変更のためのコンテンツを情報発信してもそれが無効化されるケースがあるということだ。 実際にTwitterで誤った情報を発信したユーザが訂正のツイートを発信して元記事を削除しても、 元のツイートが転載される一方で訂正ツイートがなかなか広まらないという問題が発生している。</p>
<p>こうした時間軸に従ったコンテンツ発信の問題点は雑誌や新聞といった媒体でも起る問題であり、ウェブ特有の問題ではない。 ただし、紙媒体のメディアでは時間に縛られないものとして書籍があったが、ウェブではこれに相当するウェブサイトが徐々に存在感を失いつつあるように思う。</p>
<p>このように実際に問題が生じつつも、タイムライン方式のコンテンツ発信手法が主流になりつつあるのはなぜなのか。 私はワールド・ワイド・ウェブに文書の版管理の機能が含まれていないことに原因があると思う。 ウェブ上で発信されたコンテンツに対して他者が言及し、それについて議論するには、コンテンツの内容が固定化されている必要がある。 紙媒体の書籍を中心とした議論の場では、内容の固定化が版の概念によって為されていた。 しかし、ウェブページには版の概念が無いので、別の方法で内容の固定化が行われる必要がある。 それが時系列によるコンテンツの情報発信というアーキテクチャが普及した要因であると思う。</p>
<p>テッド・ネルソンによるザナドゥ計画では、 文書の版管理機能を備えたハイパーテキストソフトウェアが構想されていた。 まさにテッド・ネルソンはコンテンツの発信が時間軸に束縛されず、上述のような問題が起こらないようなハイパーテキスト空間を創りだそうとした。 しかし現実ではティム・バーナーズ・リーによる、版の概念も双方向ハイパーリンク機能もないワールド・ワイド・ウェブが普及した。 ワールド・ワイド・ウェブはその単純な設計ゆえに開発者やコンテンツ発信者の参入障壁が低く、参入する人の多さによって機能の欠如を補うように発展を遂げてきた。 しかしながら、いまタイムライン形式のコンテンツ発信が支配的な状況にあるなかで、ここから自由になって自己の考えを表現する適切な場は、これからウェブに生まれるのであろうか。 私にはそのような方向でウェブが発展しているようには思えない。</p>
<p>もちろんコンテンツを発信するにあたって時間軸から完全に自由になることは不可能だ。 ただ、分散している思考をある程度まとまった単位で構成していくことが必要なのではないだろうか。 紙媒体から電子媒体に情報の伝達手段が移行しつつある現在でも、「本」「書籍」という言葉はいまだに使われている。 それは本というものが、人間の思考を時間から解き放ってまとめていくのにちょうど良い概念だからだろう。 図書館もまた、 コンテンツを時系列の配列から解き放つ存在だ。 棚には古い本も新しい本も対等に置かれている。 もちろんある程度の取捨選択はあるものの、そこでは時系列よりも資料に書かれた主題による分類が支配的だ。 文化は、本来時間の経過に従って過ぎ去ってしまうものが滞留する場所があって初めて成り立つのではないだろうか。</p>
<p>ウェブはもはや現実から離れた仮想的な空間ではなく、現実に影響を及ぼす重要な場として発展を遂げた。 そのなかで、時間に縛られず自由に自己の考えを披露し、フィードバックを得る方法を確保することは、ウェブで読みそして書く人間の生活を充実させるために重要なのではないだろうか。</p>
<p>どうすれば、時間から離れて情報を発信することができるのだろうか。 いまのところ私には解決策が思いつかない。 ただできるのは、時系列に縛られたブログにこの記事を投稿するという矛盾した行為をすることだけである。</p>
システムズライブラリアンってなんだろう
2013-08-14T09:05:37+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2013/08/14/what_is_systems_librarian
<ul>
<li><a href="http://current.ndl.go.jp/e1459" title="E1459 - DSpaceコミッター就任の鈴木敬二さんにインタビュー | カレントアウェアネス・ポータル">E1459 - DSpaceコミッター就任の鈴木敬二さんにインタビュー | カレントアウェアネス・ポータル</a></li>
<li><a href="http://cheb.hatenablog.com/entry/2013/08/09/220320" title="専門性とかシステムズライブラリアンとかどうでもよくて(E1459感想) - ささくれ">専門性とかシステムズライブラリアンとかどうでもよくて(E1459感想) - ささくれ</a></li>
<li><a href="http://hibiki.cocolog-nifty.com/blogger/2013/08/post-8f50.html" title="「システムを作りたい人」、そして「システムを作ること」について考えてみた。: 日々記―へっぽこライブラリアンの日常―">「システムを作りたい人」、そして「システムを作ること」について考えてみた。: 日々記―へっぽこライブラリアンの日常―</a></li>
</ul>
<p>注:書き終わったあとでシステムズライブラリアンはどうでもいいってタイトルに書いてあるじゃないかと気づいたので、以下の文章は上の記事群とはあまりつながらないかもしれません......すみません......</p>
<p>DSpaceコミッターの方のインタビュー記事がカレントアウェアネスRに掲載されたのをきっかけとして、システムズライブラリアンまたはそれに類する業務の話題が図書館系ブログ界隈で盛り上がっているようです。</p>
<p>私はまだいち学生でありシステムズライブラリアンについて語るような言葉は持っていません。ただ、システムズライブラリアンの業務についてのお話を聞くたびにいつも気にかかることがあります。それは図書館における「システム」とは何かという疑問です。</p>
<p>図書館システムと聞くとOPACや貸出業務システムなどの図書館業務を補完するソフトウェアやウェブサービスをついイメージします。しかし、そもそも図書館システムという用語は、図書館相互貸借のネットワークを維持するための運用制度として使われてきました。ICTはあくまでも手段であり、システムの本質は別にあるのではないかと思います。</p>
<p>システムという言葉はなにもICTの領域でだけ使われる表現ではありません。ハーバート・A・サイモンが執筆した『システムの科学』で挙げられたシステムの実例は市場経済やアリの学習パターンなど多様です。オートポイエーシスなどの概念は、生命や社会そのものをシステムとして分析するために生まれ様々なシステム論が形成されました。</p>
<p>資料や人材を集積して組織化し、情報提供サービスを創出しているという点で図書館そのものがシステムの一種であるということもできるでしょう。そうだとしたら、普段私がシステムと呼んでいるOPACや図書館業務システムとは一体何なのでしょうか。</p>
<p>ICTは業務を効率化することに大きな貢献を果たしていることは間違いないと思います。しかし、そのICT技術で作り出したソフトウェアが真価を発揮するのは運用方法やユーザーの適合能力があってこそでしょう。そう考えると、図書館においてシステムに関わるというのは何もソフトウェア開発だけではないし、むしろそこにのみ注力していると結局良いシステムが生まれないということになりかねない。</p>
<p>システムズライブラリアンという役割を批判したいわけではありません。むしろ私にとっては魅力的な職業であると思いますし、面識のあるシステムズライブラリアンの皆さんには尊敬の念を抱いています。</p>
<p>ただ、私が気にかかるのは本来図書館という1つのシステムを運用するために図書館業務の全般はあるはずであるのに、なぜシステムズライブラリアンという用語が注目され、その業務を重視するようになったのか。他の業務との違いはなにか。それが、現場で苦労していない者にはピンときていないということが正直な気持ちなのです。</p>
<p>きっとその疑問がはらされた時には図書館の職務についての本質をより深く理解できるに違いない。そう思いますので、システムズライブラリアンについてもっと多くの方々からお話を伺いたいですね。</p>
良い書評とは何か
2013-06-06T16:11:54+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2013/06/06/good_book_review
<p>『<a href="https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%9B%B8%E8%A9%95-%E5%85%89%E6%96%87%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%B1%8A%E5%B4%8E-%E7%94%B1%E7%BE%8E/dp/4334036198?SubscriptionId=AKIAIAR2JMFTYJZ5F74A&tag=kunimiyainfo-22&linkCode=xm2&camp=2025&creative=165953&creativeASIN=4334036198">ニッポンの書評 (光文社新書)</a>』を読んでから、自分の考える良い書評とは何であろうかと考えている。</p>
<p>先に上げた書籍は、プロの書評家である豊崎由美氏が良い書評とは何かをセミナー形式で語ったものである。ただ、語られる良い書評とは小説分野に限っている。では小説以外のジャンルはどうなのか?例えば学術書に関していえばネタバレの心配は要らないだろう。一方で書評がガイド的な意味合いを強く持つという点はむしろ学術書など前提知識が必要なジャンルでは小説以上に意識する必要がある。</p>
<p>現時点で私の考える(小説に限らない)良い書評とは、本を読み終えたその先を予見させてくれる書評である。本は物理的には独立した事物だが、知的生産物としては様々な本と網の目状の関連を持っている。だから読書とは単に一冊の本を読むことが重要なのではなく、一冊の本を起点として知識の関連性を想像するということにある。しかしこの網を想像するには一定程度の読書量が必要である。その分野に詳しく無い人やそもそも読書経験自体がまだ乏しい人は読んだ本の関連を上手くつかむ事ができず、面白さが半減してしまう。読者が独自に考える余地を与えつつ、この関連性の網を予見させ想像を誘発させるのが書評の役割なのではなかろうか。</p>
<p>この考えに基づく書評を書くにはなかなか難しい。まず評価対象の本の周辺領域をひととおり押さえておく必要があり、そのうえで書評では単なる粗筋紹介や関連本紹介になるのではなく、それ自体がある領域の解説として機能しなければならない。それでいて、明快な価値観を押し付けてはならない。果たしてこんなことを実現する評者はいるのだろうかと自分でも怪しくなってくる。</p>
<p>しかし感想と書評と批評を線引きするにはこれぐらいの条件が必要であろうし、こうしたはっきりと現れない労苦を引き受けなければいけないからこそプロの書評家という存在が成り立つのだと思う。</p>
<p>と、偉そうに書いている自分は感想文止まりの文章しか書けないのであった。精進します、はい。</p>
「ウェブ」という比喩の普遍性
2013-02-14T10:21:08+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2013/02/14/web-as-metapho
<p>ウェブという言葉を聞いて物理的な網の目を思い浮かぶ人は現代ではほとんどいないだろう。現代ではウェブといえば World Wide Web の略称となる。</p>
<p>World Wide Web 意外にもウェブ=網の目という比喩は非常に多く使われている。そもそも、WWWが登場するはるか以前に星新一はWWWに非常に類似した電話回線ネットワークを題材にした小説を書いており、その小説はなんと『声の網』というタイトルがついている。技術だけではなく比喩表現も先取りしていたのだ。</p>
<div class="amazlet-box" style="margin-bottom:0px;">
<div class="amazlet-image" style="float:left;margin:0px 12px 1px 0px;"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041303192/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51g%2BVPaQ6VL._SL160_.jpg" alt="声の網 (角川文庫)" style="border: none;" /></a></div>
<div class="amazlet-info" style="line-height:120%; margin-bottom: 10px">
<div class="amazlet-name" style="margin-bottom:10px;line-height:120%"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041303192/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">声の網 (角川文庫)</a>
<div class="amazlet-powered-date" style="font-size:80%;margin-top:5px;line-height:120%">posted with <a href="http://www.amazlet.com/" title="amazlet" target="_blank">amazlet</a> at 13.02.14</div>
</div>
<div class="amazlet-detail">星 新一 <br />角川書店 <br />売り上げランキング: 133,612</div>
<div class="amazlet-sub-info" style="float: left;">
<div class="amazlet-link" style="margin-top: 5px"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041303192/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">Amazon.co.jpで詳細を見る</a></div>
</div>
</div>
<div class="amazlet-footer" style="clear: left"></div>
</div>
<p>ウェブという比喩は物事の関係性を表す汎用的な力を持っている。『知識の社会史』という本では、19世紀の学者が階層的な知識分類体系が不完全であると批判し、知識の関係を表すのに網の目の構造の図を描いている。</p>
<div class="amazlet-box" style="margin-bottom:1em;">
<div class="amazlet-image" style="float:left;margin:0px 12px 1px 0px;">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788509105/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51KRAJ4NDML._SL160_.jpg" alt="知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか" style="border: none;" /></a>
</div>
<div class="amazlet-info" style="line-height:120%; margin-bottom: 10px">
<div class="amazlet-name" style="margin-bottom:10px;line-height:120%">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788509105/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか</a>
<div class="amazlet-powered-date" style="font-size:80%;margin-top:5px;line-height:120%">
posted with <a href="http://www.amazlet.com/" title="amazlet" target="_blank">amazlet</a> at 13.02.14
</div>
</p></div>
<div class="amazlet-detail">
ピーター バーク <br />新曜社 <br />売り上げランキング: 241,650
</div>
<div class="amazlet-sub-info" style="float: left;">
<div class="amazlet-link" style="margin-top: 5px">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788509105/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">Amazon.co.jpで詳細を見る</a>
</div>
</p></div>
</p></div>
<div class="amazlet-footer" style="clear: left">
</div>
</div>
<p>ウェブという言葉を直接的に使用している例としては、イヴァン・イリイチの『脱学校論』とハンナ・アーレントの『人間の条件』の2つが思い浮かぶ。</p>
<p>イヴァン・イリイチは学校制度が人類が主体的に学習する能力を衰退させるとして批判し、これのオルタナティブとして「ラーニング・ウェブ」という誰もが自由に学習コンテンツにアクセスして学習が可能な環境を提唱した。これが現代のオープンコースウェアやMoocsなどの運動へ波及し、まさにウェブの上で実現化されつつある。</p>
<div class="amazlet-box" style="margin-bottom:1em;">
<div class="amazlet-image" style="float:left;margin:0px 12px 1px 0px;">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488006884/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Cig-Zc25L._SL160_.jpg" alt="脱学校の社会 (現代社会科学叢書)" style="border: none;" /></a>
</div>
<div class="amazlet-info" style="line-height:120%; margin-bottom: 10px">
<div class="amazlet-name" style="margin-bottom:10px;line-height:120%">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488006884/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">脱学校の社会 (現代社会科学叢書)</a>
<div class="amazlet-powered-date" style="font-size:80%;margin-top:5px;line-height:120%">
posted with <a href="http://www.amazlet.com/" title="amazlet" target="_blank">amazlet</a> at 13.02.14
</div>
</p></div>
<div class="amazlet-detail">
イヴァン・イリッチ <br />東京創元社 <br />売り上げランキング: 54,557
</div>
<div class="amazlet-sub-info" style="float: left;">
<div class="amazlet-link" style="margin-top: 5px">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488006884/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">Amazon.co.jpで詳細を見る</a>
</div>
</p></div>
</p></div>
<div class="amazlet-footer" style="clear: left">
</div>
</div>
<ul>
<li><a href="http://blog.seishiono.net/entry/2012/12/17/192229" title="MOOCを新しい革袋に入れる - Seishi Ono's blog">MOOCを新しい革袋に入れる - Seishi Ono's blog</a></li>
<li><a href="http://www-jime.open.ac.uk/article/2012-18/html" title="Making Sense of MOOCs: Musings in a Maze of Myth, Paradox and Possibility | Daniel | Journal of Interactive Media in Education">Making Sense of MOOCs: Musings in a Maze of Myth, Paradox and Possibility | Daniel | Journal of Interactive Media in Education</a></li>
<li><a href="http://www.downes.ca/post/57911" title="The Rise of MOOCs ~ Stephen's Web">The Rise of MOOCs ~ Stephen's Web</a></li>
</ul>
<p>アーレントもまた、20世紀の人間のあり方が生命維持のための活動(=労働)を基軸として捉えられていることを批判し、人間が人間であるための政治的活動を支えるための言論空間として「ウェブ」と呼ばれる概念を提唱している。</p>
<div class="amazlet-box" style="margin-bottom:1em;">
<div class="amazlet-image" style="float:left;margin:0px 12px 1px 0px;">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081569/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41eR-3TdDLL._SL160_.jpg" alt="人間の条件 (ちくま学芸文庫)" style="border: none;" /></a>
</div>
<div class="amazlet-info" style="line-height:120%; margin-bottom: 10px">
<div class="amazlet-name" style="margin-bottom:10px;line-height:120%">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081569/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">人間の条件 (ちくま学芸文庫)</a>
<div class="amazlet-powered-date" style="font-size:80%;margin-top:5px;line-height:120%">
posted with <a href="http://www.amazlet.com/" title="amazlet" target="_blank">amazlet</a> at 13.02.14
</div>
</p></div>
<div class="amazlet-detail">
ハンナ アレント <br />筑摩書房 <br />売り上げランキング: 6,775
</div>
<div class="amazlet-sub-info" style="float: left;">
<div class="amazlet-link" style="margin-top: 5px">
<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081569/dhatenanejpkuni-22/ref=nosim/" name="amazletlink" target="_blank">Amazon.co.jpで詳細を見る</a>
</div>
</p></div>
</p></div>
<div class="amazlet-footer" style="clear: left">
</div>
</div>
<p>私がこれまで読んだわずかな本の中でもこれだけ例があるのだから、人類の歴史のなかで「ウェブ」を比喩として語った物事は無数にあるに違いない。</p>
<p>このような例に共通するのは、これらが中央集権的な制度に対抗して生み出された概念であり、それはまさしく現代のウェブの基本的なコンセプトと合致する。つまるところ「ウェブ」は人類が潜在的に思い浮かぶ普遍的なイメージなのだろう。</p>
<p>もしかしたら、いままでの人類の歴史の中でまだ World Wide Web と接続していない「ウェブ」の概念があるのかもしれない。そうだとしたら、 World Wide Web をこれから発展させるのはエンジニアではなく、まだ接続されていない既存の概念を紹介する人文社会学系の人々がそのきっかけとなるかもしれない。</p>
GitHub文化と静的ブログツール
2013-02-13T14:42:26+00:00
https://www.kunimiya.info/blog/2013/02/13/github%e6%96%87%e5%8c%96%e3%81%a8%e9%9d%99%e7%9a%84%e3%83%96%e3%83%ad%e3%82%b0%e3%83%84%e3%83%bc%e3%83%ab
<p>このブログがはてなから独自ドメインに移ってからというもの、あまり本気で更新することもなく大分時間が経ってしまった。これはまずいということでブログを書こうとはしていたが、書くよりも環境構築に目がいってしまうという私の悪い癖が発動してしまい、結局更新が滞ってしまった。</p>
<p>最近強く誘惑にかられていたのが、Wordpressで運営しているこのブログを静的なブログツールへ移行させるということ。最近は Jekyll という GitHub の中の人が開発した静的ウェブサイト作成ツールが流行しており、GitHub上にブログを建てるというユーザーが増えているためだ。</p>
<p>Jekyll などの静的ブログツールのメリットは、結局ユーザーがアクセスするブログは静的なページでPHPやMySQLを常にサーバー上に動かす必要が無い点だ。これはウェブサイトのホスティングサービス上で運営する場合に有利だし、高速化も期待できる。</p>
<p>Markdown で書かれたファイルとして記事データを管理できるのも利点のひとつだ。MySQLで記事データが管理されていると、いざデータを移動したり分析したりする際に mysqldump をするかXML形式で記事データをエクスポートするなどひと手間必要だ。それが最初からファイルとして記事データが管理されているとこうした手間が無くなる。</p>
<p>他にもウェブデザインもWordpress特有のテーマ設定などに悩まされることもないなど、様々な利点が静的ブログツールにはある。</p>
<p>しかしながら、色々試行錯誤した末に結局Wordpressを現状どおり使い続けることにした。理由は様々だけれども、最も強い理由はコメントやトラックバック機能が外部サービスに依存せざる終えないことと、SSHやGit環境がないところでブログを更新することができない点にあった。</p>
<p>ということで結局Jekyllをブログツールとして本格活用することはないものの、静的ブログツールの流行には依然として興味がある。</p>
<p>もともとMovable Type は静的ブログ生成方式を採用していたので、静的ブログツールの歴史はかなり古い。それがなぜ今になって再び脚光を浴びているのかといえば、それはやはり GitHub の存在にあるだろう。</p>
<p>Github にあるのはオープンソースソフトウェアプロジェクトだけではなく、雑誌記事の原稿や恋人募集の原稿などもある。面白いのはこうした自然言語で綴られたものもGitHubのプルリクエスト機能によって他人の手による翻訳や添削が寄せられることだ。GitHub はもはや単なるリポジトリホスティングサービスではなく、gitを使ったコラボレーションの場所として使われている。</p>
<p>静的ブログツールが再考されているのは、こうしたコラボレーションの場に乗っかることができるからだ。静的ブログツールは記事データそのものを単なるファイルとして管理できるので、記事データを git リポジトリの管理下における。それはブログ記事を他人が推敲してプルリクエストすることができるということだ。あるいは、ブログそのものを自分の好きに改造して自分のブログとして使うこともできる。記事データも含めて。</p>
<p>こうした GitHub上に生成されたブログは一般的なブログとは本質的な違いがある。それは一般的な小説とアラビアンナイトを比較するようなものだ。アラビアンナイトは様々なバージョンがあり、翻訳者によって物語自体が書き換えられる場合がある。</p>
<p>例えば経済学の権威が書く少々難解なブログがあれば、それをフォークしてキーワード解説を付与したブログを他人が公開するということが考えられる。経済学権威は読み手の知識について勘案する心配はなく、自由にその難解な文章を書いていられるし、あまり知識の無い読み手は有志が開設した開設付きブログを読めばいい。</p>
<p>こうした他者によるウェブサイトの翻案としては2ちゃんねるのまとめブログなどが思い浮かぶ。これと同じような状況がやがて個人ブログにも及ぶ日が来るのではないだろうか。</p>
<p>コラボレーションを前提においたブログのあり方にはメリットもあればデメリットもあるだろう。結局そうしたブログの様式が一部のGitHubユーザーだけに留まるのか、それともツールが発達して一般的なブロガーにも広まるのか私にはわからない。そしてそれがどういう影響をウェブにもたらすのかも。</p>
<p>あなたはどう思うだろうか。</p>