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ブログ然り、Twitter然り、時間に基いて配列してコンテンツを配列する、いわゆる「タイムライン形式」のコンテンツ発信手法が主流だ。 この手法は一見、理にかなっているようにみえる。 時間は人間が生きる上で絶対に存在するもので、時系列は逆行も重複もしないコンテンツの分類方法だから、 コンテンツ制作者は情報のアーキテクチャについて考える必要はなくコンテンツを配信することに専念できる。

しかし、タイムライン形式のコンテンツ発信手法にはある問題を抱えている。 それはコンテンツの誤りを訂正したり、内容を改善しようとするのが難しい点である。 ブログやTwitterといったタイムライン機能を持つウェブサービスでは基本的に内容の変更を前提としていない。 特にTwitterはツイートの変更という機能そのものがなく、削除しかできない。 ユーザはしゃべるようにコンテンツを発信し、内容を変更しようとすればそれを新たなコンテンツとして発信する。 これは一見問題がないように思えるが、口頭による情報伝達とは異なり、一度発信したコンテンツを削除することはなかなか容易ではなく、 訂正や内容の変更のためのコンテンツを情報発信してもそれが無効化されるケースがあるということだ。 実際にTwitterで誤った情報を発信したユーザが訂正のツイートを発信して元記事を削除しても、 元のツイートが転載される一方で訂正ツイートがなかなか広まらないという問題が発生している。

こうした時間軸に従ったコンテンツ発信の問題点は雑誌や新聞といった媒体でも起る問題であり、ウェブ特有の問題ではない。 ただし、紙媒体のメディアでは時間に縛られないものとして書籍があったが、ウェブではこれに相当するウェブサイトが徐々に存在感を失いつつあるように思う。

このように実際に問題が生じつつも、タイムライン方式のコンテンツ発信手法が主流になりつつあるのはなぜなのか。 私はワールド・ワイド・ウェブに文書の版管理の機能が含まれていないことに原因があると思う。 ウェブ上で発信されたコンテンツに対して他者が言及し、それについて議論するには、コンテンツの内容が固定化されている必要がある。 紙媒体の書籍を中心とした議論の場では、内容の固定化が版の概念によって為されていた。 しかし、ウェブページには版の概念が無いので、別の方法で内容の固定化が行われる必要がある。 それが時系列によるコンテンツの情報発信というアーキテクチャが普及した要因であると思う。

テッド・ネルソンによるザナドゥ計画では、 文書の版管理機能を備えたハイパーテキストソフトウェアが構想されていた。 まさにテッド・ネルソンはコンテンツの発信が時間軸に束縛されず、上述のような問題が起こらないようなハイパーテキスト空間を創りだそうとした。 しかし現実ではティム・バーナーズ・リーによる、版の概念も双方向ハイパーリンク機能もないワールド・ワイド・ウェブが普及した。 ワールド・ワイド・ウェブはその単純な設計ゆえに開発者やコンテンツ発信者の参入障壁が低く、参入する人の多さによって機能の欠如を補うように発展を遂げてきた。 しかしながら、いまタイムライン形式のコンテンツ発信が支配的な状況にあるなかで、ここから自由になって自己の考えを表現する適切な場は、これからウェブに生まれるのであろうか。 私にはそのような方向でウェブが発展しているようには思えない。

もちろんコンテンツを発信するにあたって時間軸から完全に自由になることは不可能だ。 ただ、分散している思考をある程度まとまった単位で構成していくことが必要なのではないだろうか。 紙媒体から電子媒体に情報の伝達手段が移行しつつある現在でも、「本」「書籍」という言葉はいまだに使われている。 それは本というものが、人間の思考を時間から解き放ってまとめていくのにちょうど良い概念だからだろう。 図書館もまた、 コンテンツを時系列の配列から解き放つ存在だ。 棚には古い本も新しい本も対等に置かれている。 もちろんある程度の取捨選択はあるものの、そこでは時系列よりも資料に書かれた主題による分類が支配的だ。 文化は、本来時間の経過に従って過ぎ去ってしまうものが滞留する場所があって初めて成り立つのではないだろうか。

ウェブはもはや現実から離れた仮想的な空間ではなく、現実に影響を及ぼす重要な場として発展を遂げた。 そのなかで、時間に縛られず自由に自己の考えを披露し、フィードバックを得る方法を確保することは、ウェブで読みそして書く人間の生活を充実させるために重要なのではないだろうか。

どうすれば、時間から離れて情報を発信することができるのだろうか。 いまのところ私には解決策が思いつかない。 ただできるのは、時系列に縛られたブログにこの記事を投稿するという矛盾した行為をすることだけである。

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