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私が図書館に関心を持ち、図書館について学ぼうと考えるようになったきっかけは、初めて自分ひとりだけで図書館に行ったときの感動だった。

それは小学校低学年の頃だったかと思う。私が小さな市立図書館の扉を開いて、自由に本棚を歩いているときに抱いたイメージは今でも覚えている。それは無数の窓であった。 それも窓と窓が重なりあい隣り合い、ひとつの結晶構造を形作っているような、そのようなイメージだった。窓の向こうには私が行ったことのない国があり、会ったことのない人がいて、今まで聞いたことのない話をしてくれようと私に手を伸ばしている。窓から窓に様々な糸が張り巡らされていて、窓を開いて話を聞いているとき(つまり本棚から本を取り出して読んでいるとき)、ときおりその糸が揺れうごき、窓と窓の関係を私に教えてくれた。

本棚を前にしてこのようなイメージを抱いた時、私は自分が無数の人びとと共に生きていているということを実感した。それは地球儀に触れるよりも旅行するよりもはるかにリアリティのある体験だった。 ( ついでにいえばそのイメージを強く喚起した本棚は図書館の蔵書の大半を占めていた9類(文学)の棚ではなく、 9類におされて小さくまとまっていたその他のノンフィクションの棚であった。 )

この図書館に対するイメージは、何を意味するのだろうか。それは私の幼いころからの課題であり、未だに結論が見えない。ただそれは私がひとりの人間として公的な領域と関わることと重要なつながりをもっているのではないかとぼんやりと考えている。

それまでの私の読書体験は自分の家庭環境と不可分なものだった。幼いころは親からの読み聞かせで本に触れ、物心がついた頃には家にある本を読むようになり、その後書店で本を買うようになってもその代金は結局親からもらうものであった。それに対して図書館で本を借りるという行為は、そうした自分のプライベートな都合から離れて、ひとりの人間として本を読むという行為を実現してくれる。つまり図書館における読書は子どもが対等な人間として公的な領域に触れる数少ない体験となりうるのである。

ハンナ・アレントは『人間の条件』のなかで、公的という言葉についてこう語っている。

公的パブリック」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである。しかし、ここでいう世界とは地球とか自然のことではない。地球とか自然は、人びとがその中を動き、有機的生命の一般的条件となっている限定的な空間にすぎない。むしろ、ここでいう世界は、人間の工作物や人間の手が作った製作物に結びついており、さらに、この人工的な世界に共生している人びとの間で進行する事象に結びついている。世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人びとの真中ビトウィーンに位置しているように、事物の世界がそれを共有している人びとの真中ビトウィーンにあるということを意味する。つまり、世界は、すべての介在者イン・ビトウィーンと同じように、人びとを結びつけると同時に人びとを分離させている。

『人間の条件』ハンナ・アレント/著 志水速雄/訳, 筑摩書房, p.78-79

ハンナ・アレントの言葉を踏まえれば、私は図書館という人間の製作物によって世界に触れ、遠く離れた人びとと結びついたのである。 それは同時に、身の回りの人びとから分離され、ただひとり考え感じることを経験したのである。 図書館は私に、ハンナ・アレントいうところの独居ソリチュードを体験させたのだろう。

他人がこのような体験をしたことがあるかどうかは分からないが、その体験は私の人格や行動に変更不能な影響を与えたのである。 そして、私の図書館に対するイメージを決定づけ、 私が図書館について学び研究するときに、人との関わりを作り出すことに注目しがちな性向を創りだしていったのである。

つい最近、博士論文という形で自分の考えを世に発表したが、博士号をいただくことになってもなお自分の図書館についての考えが完成したとは思えないでいる。

図書館にはじめて入ったときの衝撃的なイメージから長い時間を経て、今私は図書館員として勤務するようになった。 仕事の上で図書館について考えるとき、上に書いたような個人的な体験に基づく独自の考えはできるだけ省き、現実的な視点で考えるように心がけている。 ただ、これまでと同じように、これからも私は図書館と、図書館を通じた人との関わりについて考え続けていくことになるのだろう。

その成果として、ただ独居的に図書館についてのイメージを抱くだけでなく、現実に人びとと図書館の中で特別な体験を共に得たいとも思っている。

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